【suggest】承認欲求と骨抜きにされる人々
人間が誰しも持っている感情、「承認欲求」
好きな人に褒められたい、評価されたいと思うのは皆に共通した感情といえるでしょう。
この承認欲求は、人のパフォーマンスを上げるのに非常に役立ちます。
親に褒められたいから勉強を頑張る、上司に評価されたいから仕事を頑張る、大会で優勝したいからスポーツを頑張る…
などなど人が努力をするのに承認欲求というのは欠かせない存在なのです。
しかし、この承認欲求は常によい使い方をされているとは限りません。
使い方によっては、人を騙し、骨抜きにすることもできてしまう、とても危険な感情なんです。
今日はその恐ろしさについて話していきたいと思います。
承認の形は1つではない
一言に「承認欲求」といっても、承認という言葉の裏にはいろいろな意味が含まれています。
例えば給料を上げる、言葉で褒める、トロフィーを渡す、数字で評価するなどなどその形は様々。
実益を伴うものもあれば、名誉にかかわるもの、特に何の価値もないものもあります。
「試験に合格したから、免許がもらえる」
「素晴らしい活躍を収めたから、国民栄誉賞がもらえる」
なども承認の一種といえるでしょう。
金銭や権威を持つかに関わらず、もらった人が嬉しいと思えるのならばそれは承認なんです。
努力と結果
誰かを評価しようとすると、そこには何かしらの評価できる要素が必要となります。
「大会で優勝したから賞状を与える」ということは簡単ですが、「いつも頑張っているから賞状を与える」となると、頑張ってるって誰が決めるんだ、となって万人が納得できるものではなくなりますし、「なんか知らんけど賞状を与える」なんてもってのほかです。
では「評価できる要素」とは何なんでしょうか?
絶対評価による結果
多くの場合、最も評価しやすいのは、絶対的な競争による結果です。
どういうことかわかりづらいと思うので、例えば水泳の大会を例に出してみましょう。
水泳の大会は、多くの人が全く同じ条件で泳いで速さを競うというものです。100m平泳ぎであれば、「同じプールで」「100mを」「平泳ぎで」より速く泳いだ人が勝ちとなるわけですね。
もしこの大会で優勝したとなれば、同じ条件で泳いだならばほかの誰よりも速い、という誰にも文句のつけられない事実が証明できるため、多くの人が同じように、「大会で優勝するほど速く泳げるなんてすごい」と評価することができるんです。
だれも、「速く泳いでるように見えるだけで大したことないんじゃない?」なんてことは言えません。
これが絶対的な競争による結果の強さです。
相対評価による結果
絶対評価は誰が見ても納得できものですが、相対評価の場合はそうであるとは限りません。
相対評価とは、数字や実際の勝負による確実なデータがなく、他のものと比べてどうかでしか評価できない状態を表しています。
例えばアートなんかはその典型的な例で、見る人が他の作品と比べて何か価値を見出すかで評価が決まることが多いですね。
特に新しいものを作り出す仕事、アーティストや起業家、小説家や社長なんかは前例のないことをするため評価が難しく、どうしても人によっていい悪いの感覚が変わってしまいがちです。
さらに具体的に何かここがすごいというポイントを挙げることも難しいため、絶対的な数字を持つスポーツやテストなどに比べると評価されづらくなってしまうんです。
しかし何か新しいことをしたという事実があるならば、一定数評価してくれる人はいるため、全くわかってもらえないことはないでしょう。
結果に現れない努力
これが、最も他人からの評価が難しい項目です。
というのも実際に何か得たものがあるわけではないので、評価するポイントがないですし、他の人と比べて優れているのかどうかもいまいちよくわかりません。
しかしながら、努力をしてる側の人としては、1番評価してほしいポイントで、結果を褒められるよりもその裏にあった努力を褒められる方が嬉しいのです。
そもそも努力に価値はつけられず、結果があって初めて意味を成すものなので、本人がいくら頑張ったところで周りの人にそれを理解してもらうのは至難の業なんですね。
まとめると
絶対的な結果>相対的な結果>結果にでない努力
の順で評価されやすいが、人がもっとも評価してもらいたいのは努力だ、ということです。
うまく努力を評価する
では努力を評価してあげることができれば、その人の承認欲求は満たされ、評価してくれた人についていきたいと思わせられるということになりますね。
ですが努力は何の基準もないためそのまま評価することは難しい…
さあどうしたものでしょうか?
ここで非常に巧みな方法を使ってこの問題を解決した例を紹介しましょう。
それが学校のテスト。
確かに努力はそのままでは評価できません。
しかし努力量がちょうど点数に反映できるようなものを作れれば、もっとも評価しやすい絶対評価により努力を評価できるのではないか。
そうして出来上がったのが学校のテストです。
小学生や中学生が、自分の知識をもとに社会の利益になることをするのは難しく、勉強をしたところでそれを評価してくれる人は普通いません。
が授業を聞いていれば簡単に点数を取れるテストを作ることによって、テストの点数という結果で正当に努力を評価することができるのです。
もちろん努力を見るために作られたものですから、何か点を取ったからと言って多くの人にメリットがあるわけでもなければ、資格も金銭も当然もらえません。
しかしそれでも、「自分のした努力がそのまま点数になって評価してもらえる」というシステムはあまりに強く、それは時に実益を超えた努力を生み出してしまうのです。
そこに何かの役に立つかなんてことを考える余地はありません。
承認欲求で人を思い通りに
努力を評価できれば人を簡単についてこさせられるということはわかってもらえたかと思いますが、実はそれだけでは留まりません。
実際に役に立つ結果を出さずとも、努力をするだけで評価されてしまうと、人はそちらに甘えて、わざわざ評価されないリスクを取ってまで新しいことをしなくなってしまいます。
授業を聞いているだけで点数がもらえるのに、将来役に立たないだろうから授業を聞かずに独学で勉強します、なんてことができる人はそう多くないのです。
なぜなら独学でやったからといって将来よりいい人生を送れるなんて誰にも断言できない一方、授業を聞くだけでまちがいなくテストの点数はもらえるんですから。
周りの人々が点を取って誉められていく中自分だけ何も評価されず我が道を進み続けるなんてことはよっぽどの意志の強さと確固たる自信がないとできないんです。
これは何も学校に限った話ではなく、一度安定した仕事につくとチャレンジをしなくなってしまうのはどこでも共通ですね。
そうして出来上がる人は、自分の努力が評価してもらえる分野だけを頑張るようになり、他のことにはチャレンジもしなければ興味もない、要するにテストを作る側の言いなりになってしまうのです。
公教育の恐ろしさ
最後に公教育の怖さについて少しだけ。
大人になってから努力を評価してもらいにいくというのは、あくまで自分の意思であり、他の方法も取れる中でより評価してもらいやすいものを取ったに過ぎません。
しかし子供のうちはそうではなく、自分を誰かに評価してもらうためには、テストの点や大会の結果などを見せるしかないのです。
大人と違って、金銭を稼いだり資格を取ったり仕事で成果を出したりという形で評価してもらうことはできません。
なぜならまだまだ未熟であり社会的に評価されるレベルにまで至っていないのだから。
こうなってしまった時に、子供たちがどうするかというと、より簡単に評価してもらえる努力ばっかりするようになり、将来お金を稼ぐのに使えるのか、何か新しいものを作れるようになるのか、などと言ったことを考えられなくなります。
その結果多くの人が学校の勉強をしてテストで点を取るという道に進んでしまい、学校で教えられたことは良くできる、しかしそれが何の役に立つのかも知らなければ、学校で教えられていないことはできないという人たちが生まれてしまうのです。
こうなった指示待ち人間たちは、指示を出す人に従わざるを得ません。その中でも学校の勉強をしていればできるような指示を出してくれる人のところについていくことになります。
つまり学校の勉強が評価に直結する、そのような仕事の割り振りができれば簡単に人々は動かすことができ、しかも仕事を割り振ってないと自分からは何も作り出せないため、反抗もせず辞めることもなく従順に働いてくれます。
公教育に縋らざるを得なくなったときから、従順な指示待ち人間たちは出来上がっていくのです。
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