【え】テンプレ化したエモ【50音エッセイ】
こんにちは、どっふぃーです。
みなさんBeRealってやったことありますか?
何やら突然通知が来て、2分以内に今やっていることを内カメと外カメで撮影しないといけないらしいです。
僕はやったことなくて、話は聞いていたものの実際に見たこともなく空想上の存在か何かかなと思っていたんですが、最近とうとう友達がやっているところを観測しまして、あ、本当にあるんだ、などと知識から経験への昇華が行われた模様。
しかしこのアプリ、流行るにしてはあまりにも怖すぎません?
一人でスマホ見てる時に通知が来るなら全然問題ないんですけど、お風呂に入っている時に鳴ったらどうするんでしょうか。怖すぎて夜も眠れません。
あ、そもそも夜に通知きたらまずいから眠れないか。
とはいえまだ一人の時ならマシな方ですよ、風呂上がればいいだけなんで。それより友達といる時に通知が来るのが問題だと思う。
僕なんかは絶対友達との写真をSNSにあげるなんてことはしたくない人間だし、あげられるのも嫌なので到底BeRealには向いていないっぽいです。もし僕といるときに通知きたら2分で急いで近くのコンビニにでも駆け込んで、店員さんと2ショット撮っておいで。
こんなに自分のプライベートを晒せるというのは、友達がいないんだか周りの人間を全員運命共同体と思っているんだかのどっちかしかあり得ないと思うんですがどうなんでしょう。有識者の方教えてください。
ともかくBeRealは極端な例とはいえ、SNSに自分の活動を上げるというのは今やマジョリティと化しており、風呂場の画像は上げないとしてもスタ場の写真は上げない方が失礼みたいな風潮すらあります。全員の手だけ写っていて買った飲み物を見せびらかす謎の構図は現代日本における義務教育と言っても差し支えないでしょう。
他にもカラオケに行けば写真、遊園地に行けば写真、自然を見に行っても写真。人間はどうやら第3の目を手に入れたようで今まで使われていた両目はもはや無用の産物、スマホを見るためにしか使われなくなっております。
いや分かるんですよ、楽しかった思い出を周りに見せつけたい気持ちは。でも秘密にしておきたい僕みたいな人間がいることも知っていてほしい。別にネットに頼らないといけないほど承認されていないわけでもないし、なんか周囲の人に自分の生活がバレてるって嫌じゃないですか。
それも解像度の低い知見で。
たかだか写真1枚やそこらでこの楽しさが共有されてよかろうはずがないんです。
さあ愚痴が止まりませんが今日はそういう記事です。いかにアクロバティックに罵詈雑言を並べ立てられるか、それこそがネットへの適応度を表しているといっても過言ではない。
他にも皆さん、「エモ」という概念をご存知でしょうか。もはや知らない人はいないほど浸透していますが、emotionalから来ている言葉で感動的とか趣深いに近い概念といえます。
僕はこの言葉結構好きで、翻訳の限界に挑もうとするより日本語にない感覚を和製英語化して導入するのは悪くない考えだと思うんですよね。チルいとか。
しかし!「エモ」概念の一人歩きは許されてはいけない。
もちろん古来より散りゆく桜だとか沈む夕日だとかはいとおかしきことだった訳で、別にそういう気持ちの共有はいいんですけども、どうも概念の方に人間が支配されていて、出展のない根拠に溢れてしまっているような気がします。
インスタ映え、Xでの耳学問レスバ、サブスクでの音楽のコンテンツ消費…
例を挙げると枚挙に暇がありませんが、総じていえることは、現代社会でいいものというのはみんながいいと思うもの、みんながいいと思うものはSNSで人気があるものだということ。
つまりいいねや再生数が増えたものを多数が真似し、それによってSNSでまたもや人気になり、またそれを真似してという高ペースでの自己言及性が今の社会的価値観には存在しており、もはやその始まりを追うことはできないのです。
そしてコピーの過程で意見というのは強化されます。猿真似は二番煎じにしかならないため、気を引くためにはより純度の高い意見が求められる、これによってXでの政治的意見はどんどん偏り極右を競う争いと極左を競う争いに、Instagramでのエモはどんどんピュアなものになり、日常の一部がエモかったものを投稿していたのが逆転しエモい日常を作り出しにいく(その方が純度が高いですからね)訳です。
それがスタバの商品撮影会であり、遊園地での集合写真だとかランキングやハウツーを極端に短い時間に抽出したリール動画、サビとか高難度パートしかプレイされないですぐに消費されていくポップミュージックであると。
Youtube Shortもそういう傾向がありますね。
これを僕は「エモのテンプレ化」と呼ばせていただきます。
今起こっていることは既存のエンタメの過程の部分を完全に抜き去り、エッセンスだけを抽出する、典型的なコンテンツ消費であり、好きな場面トップ10なんて動画を作ることはアニメやマンガの作者に敬意を欠いている、サビや高難度パートだけ演奏することは作曲者に敬意を欠いている、そして思い出を分かりやすい画像して投稿することは友達、ひいては自らの尊重を描いた行為ではないでしょうか。
テンプレートはそこから改変していくための土台であり、基本的な感情であるエモにも様々なバリエーションがあるからこそ人間というのは面白いのです。
皆さん、人の意見をみてすぐにより強い意見で返そうとしていませんか?
自分の方が忙しくて充実していてはっきりとした意見を持った人間になろうとしていませんか?
そうした動きが細かな個性を失わせテンプレ化した人間を生み出してしまうのです。
はい、この辺りで今日はやめておきましょうか。
今回はありきたりな社会批判といった内容になってしまいましたが、こういう回を作ったのにも実は明確な意図があったりします。
こうした社会風刺をを何となく心に思っているだけでは、SNSの病人と同じように「これを批判できる自分えらい」という優越を感じるための行為になりかねません。
というか今のSNSはかなりこの隠れたマウントの取り合いの部分が大きく、「自分だけはこのつまらないSNSの世界で流されずにうまく立ち回れているぞ」、という謎の自信を全員が持っています。だからこそ無益な争いが止まらない。
なので無限のイデオロギーマウントの取り合いを止めるためには、自省の意も込めてここに成文化した誹謗中傷を残しておく必要があるのではないかと。
悪口は書いて仕舞えば意外と大したことなかったりします。それを独占している状態が気持ちいいから特定の人にだけ言うんです。SNSは不特定多数に言っているように見えますが実際には自分と考えの近い人とか友達にしか表示されないのでね。
従ってブログに書いて仕舞えばその時点で言っていることのくだらなさがバレてしまう。自分への戒め、そして皆さんにつまらない議論であることをお見せすることがこの記事の目的となっております。
いうてもみんな生きてるだけで結構面白いからそのまま思ったことを大事にしてほしいものですね。
次回は11/11(月)更新です。それではまた次回お会いしましょう。さよなら!
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