【い】印象派的人間【50音エッセイ】

50音エッセイ

どうも、どっふぃーです。

最近モネ展に行ってきました。今ちょうど国立西洋美術館で開催されていますが、やっぱり印象派っていいですね。

ここしばらくは東洋美術やモダンアートに触れることが多かったんですが、印象派の完成された色遣い、風景の切り取り方は何物にも変え難い。

モネの作品なんですが、印象派と呼ばれるだけあって細部の描写については決して緻密とは言えない、というかむしろ線の流れを捉えただけの下書きに近く見えるものなのに、なぜか遠くから俯瞰的に見るとこれ以上ないほどに写実的で美しい風景を切り取っているんですね。

本展覧会のテーマである睡蓮も素晴らしかったですが、僕が最も感銘を受けたのは日本の橋(モネの庭にある)!一見近くから見るとただカラフルな点を乱雑に描き並べただけに見えるんですが、これが離れていくとあら不思議。川の流れが見え、散る落ち葉が見え、差し込む木漏れ日がそこに現れるんです。

決して落書きなどではなく、全体としてのバランスを常に取り続ける圧倒的な技術に裏打ちされた絵画なんだと改めて確認させられましたね。

まだ訪れていない方は是非とも観に行ってみて下さい。本当にいいので。

さて、モネ展に感動した僕ですが、こんなことを思ってしまいました。

「僕、印象派的人間になりたい!」

Let me explain further

芸術史は大きく見ると2つ、ルネサンス以来の写実的、ロマン主義的な絵画の流れと、ヴェネツィア派、そして印象派へと継がれていく色彩と瞬間の表現を重視した絵画の流れがあるかと思います。

そしてこの2つの流れは相互補完の関係にあり、細部の描写、理想的な構図に主眼を置くルネサンスと、全体の印象、瞬間的な風景に主眼を置く印象派により芸術は一旦の完成を見せたと言ってもいいでしょう。

モダンアートはそこからの脱却を目指してはいるものの、やはり上の2つに比べると行き詰まっているように感じます。

そこで僕は考えた訳です。

「これって人間像に関しても同じように考えられるんじゃない?」

僕たちが目指すような人間像にも2パターンあって、1つは例えばサッカーが上手いだとか法学がよくできるだとかといった、特定のテーマに関してある種「洗練された」状態になろうという動き、それに対してもう1つは、いいキャラになりたいだとか人間関係をうまくこなしたいなどといった、他人ありきでの「どう振る舞うか」に関する動きであると考えてみましょう。

これがちょうど芸術の2潮流に対応しており、1つの絶対的な到達点を想定してそこに向かって努力するのがルネサンス的な考え方、自分がいいと思うような人間像(当然人によって違う)を想定しそれを表現しようというのが印象派的な考え方と言えます。

するとですね、人間の要素は個々のステータス(頭がいい、運動神経がいい、絵が上手い…)とその組み合わせ・魅せ方(社交的でリーダーシップを発揮する、理性的で穏やかなバランサー、ピーキーなお調子者)によって構成されるということになります。

どうですか?こうしてみると結構美術の考え方と人間像って似てるなって思いませんか?

美しさを求める美術という分野は、きっと人間の目指すところに近い部分があるんでしょう。

しかし異なるところもあって、細部の細かい描写と印象派的な瞬間の切り取りは一般に両立しないのに対し、

(人はある瞬間に物事の全てを捉えているわけではないため、例えば山の景色を見ているときに雲の詳細な形や木々一本一本の木の葉全てを描くのは瞬間の切り取りという点でむしろ違和感がある)

人間像に関しては細部が洗練されていたとしても、他人にはそれを隠したり好きなような形で見せることが可能です。

振り返ってみましょう。

そこのあなたも、接する人によって自分の態度や性格を変えたり、どれくらい自分の情報を明かすかを変えているんじゃないでしょうか。

自分の持っている能力というのは変わらないが、魅せ方や見せるものを変えて人との関係は組み上げられていく、この点であなたはもうすでに印象派的人間なのです!

はい、なかなかにとんでも論法を繰り広げていますが一旦批判は傍にでも置いて狐につままれておいてください。

つままれましたか?

よし。

読者全員がつままれたところで、僕って印象派的人間になりたいんですよね。

そもそもブログがそういう側面を持っているともいえます。

というのも実は「良いブログ」というのを説明するのはすごく難しくて、分かりやすい言葉で解説されている、とかレイアウトが見やすい、といったテクニカルな要素はもちろんあるんですがそれだけではなくて、例えば僕の場合は思考の整理と記録をする日記的な役割を求めていたり、ちょっと耳を傾けたくなる雑談を文字にしたい、なんていう抽象的な目標もあります。

これらは洗練されたというよりかはパラダイム、「どう表現するか」についての問題であり、日々のちょっとした面白さを書いていくというのがブロガーとしての到達点となるのです。

それは日常生活についても同じで、頭がいいからといっていつも合理的に判断をする人間ってつまらないんですよ。

何でもかんでもできる人間ってつまらないんですよ。

いつも同じような側面しか見せない人間ってつまらないんですよ。

だからこそ!

自分の中のどの瞬間を切り取るか、をとにかく大事にしたい。

ある時には奇想天外な発想を出し続ける空気の読めないバランスブレイカー、ある時にはチームのリーダーだが能力はそこまで高くなく周りを頼っていくダメ社長、ある時には深い思考を引っ提げてクリティカルな発言で突き刺していく論理学者、そしてある時にはその中間ぐらいにいる自然体の自分。

それはモネで言うところの気候、時間によって見せ方をかえる睡蓮であり、自らの美しさは勿論、陽光によって作られる影、周囲の柳とのバランス、池に映る木々、そのどれもが蓮の葉を引き立たせるのです。

絶対的な強者となるのではなく、自分にとってよりよい環境、魅力を引き出してくれるような人間と関わることが、僕の数年来の目標であり生き方といえましょう。

煮詰まって来たところで今日のエッセイはお開き!

前回みたいな軽めの雑談もあれば今回みたいな重めのエッセイもある。そんな感じのブログです。

スタイルには拘らず、「ちょっと耳を傾けたくなる小話」を目指しておりますのでどうぞよろしく。

それではまた次回!毎週月金の予定です。