HOME ALONE【2024.10月エッセイ集】
歩行
歩くという行為は、ただの移動を遥か凌駕した価値を持っている。
新たな景色と出会える可能性がそこにはある。見慣れた景色ですらその日の天気、気分、季節など様々な要因により常に変わった姿を見せてくれる。
生の実感がそこにはある。足の痛み、爽快な疲労感、よく歩いた日の夜はよく眠れるものである。
発想の源泉がそこにはある。会話というのは意外にも歩いている時の方が捗るものだ。立ち止まっていると思考は凝り固まっていく。歩くことで新しい刺激を受け、斬新なアイデアが生まれてくる。
9月はよく歩いた月だった。1日あたりの平均歩数がおよそ10000歩、アルバイトの時間などは全く計測されないことを考えるとかなりの量である。
境港を歩き、逢坂関を歩き、鎌倉の切り通しを歩いた。
世界は美しかった。
知識としてのみ知っていたこの日本という国は、そんなにいいものではなかった。源氏が平氏を打倒し鎌倉幕府を立てようが、境港が漁獲量が全国3位の港であろうが、それは可もなく不可もない現実としてしか入ってこない。
日本各地どこだって何らかの歴史はあり、何かしらの特産物だとかトピックがあるわけだが、それを知ったとて土地の良さがわかるわけでは全くない。
しかし実際に歩いた境港の町は、想像よりはるかに活気がなかった。
漁港の活動時間は早朝である、昼に行ったところで活気がないのは当たり前といえば当たり前なのだが、そうは言っても大阪や東京に見慣れたこの目では鳥取の港はあまりにも貧相に見えた。
しかしそのことで落胆したのかというと、決してそうではない。むしろ逆である。
教科書やニュースでは漁港の町としてしか出てくることのない境港が、実際には魚を取るための機械のような町ではなく、人の住む、静かな田舎なのだという実感が、僕には美しく感じられて仕方なかった。
ある面だけを取り出して目立ったトピックだけを知る、そんな学習をしているとこの世界はとても無機質でつまらないものである。
だが現実は決してそうではない、もっと乱雑で、貧相で、言ってしまえばダサい場所だらけなのだ。
そこに1人1人の人生が詰まっていて、何百人何千人の人々が各々の活動をしているのに、なぜか一つの町として成り立っている。
これを奇跡と言わずしてどう説明できるだろう。このダサさこそが、ギリギリのバランスで偶然世界が成り立っていることの証だと僕は思う。
歩くという行為は、無機質で整然としたこの世界とやらに、人間臭さ、ダサさを与えてくれる。僕に等身大で生きることを許してくれるのである。
HOME ALONE
最近SNSの類を全てやめてみた。
元からそんなに積極的に活用する方ではなかったのだが、見るのすらしんどくなったためいっそのこと消してしまおうということでスマホからTwitter、Instagram、Facebookのアンインストールを決行。
LINEも本当はやめたいのだが流石に現代人の必須ツールっぽいので、返信を著しく減らす程度に留めアンストまではしないことにした。
さて、その感想だが、やはりSNSは碌なものではない。
上に書いた世界が無機質になっている原因は大抵こいつらではないだろうか。
よくわからないがSNS上には超人類みたいな方々が跋扈している。毎日が充実していて音楽ができてダンスが上手くて頭が良くて運動神経が良くて恋愛強者といった人類かも怪しい何かが大量に発生している。
気をつけろ、勉強できなくて鬱とか、彼女できなくて横転みたいなツイートは嘘だからな、そいつらは人生の勝ち組でしかない。
暴言はさておき、世の中には優れた人がいるものだが、そういう人たちを見ていたって別に幸せにはなれない。
大体知識があるということはいいこととは限らない、なぜなら知識は断片的にしか得られないからである。
この世界には自分にとって都合のいい情報と不都合な情報、どうでもいい情報の3種類があるわけだが、SNSは自動的に都合のいい情報か不都合な情報しか流さないようにしてくる。
ほとんどの情報は僕にとっては無関係でどうでもいい、ただ存在しているだけのものなのだが、なぜかSNSにいると気分を害するか気分が良くなるかの情報しか流れてこないのである。
これがあまりに気持ち悪かった。常に自分という存在の価値づけ、答え合わせをされているようで、意味のないただ日々を送るという行為が許されなくなってしまったのだ。
冷静に考えると僕は別に正義のヒーローでもなければ神に選ばれた預言者でもない、大層な存在になる必要はない訳である。
超人類たちに押し潰されている現状から、何者でもない1人の「人間」に戻るためにしばらくはSNSは遠ざけておこうと思う。
連絡も大してつかず僕の友達には気の毒な話だが、人間はちっぽけな存在なのでそこのところ受け入れていただきたい。その分リアルで会う人は大事にしていくつもりである。
リーサル・ウェポン
人は「ギャップ萌え」に弱い。
普段おとなしい子が文化祭でギターソロを弾き出すとか、いつもグループの中心になっている人気者が弱音を吐くとか、ボーイッシュな子のスカートだとか…
親しい人が知らなかった一面を見せてくると簡単に絆されてしまうのが人間という生き物の性であり、普段のイメージがあるからこそ何倍にもなって魅力が降りかかってくるのだ。
さて、僕は最近このギャップ萌えをコミュニケーションにおいて意図的に使っていけないかと模索している。
もちろん上にあげたように普段の自分の性格から違うことをやればギャップ萌えは生まれるのだが、それはあくまで自分のキャラクターありきの話なので、元々特徴のない分野で引き起こすのはなかなか難しい。元が可愛いからかっこいい行動をしたら映えるのであり、可もなく不可もなくみたいな人がやっても仕方がないのだ。(悲しい現実である)
ではどうしていくのかというと、もう少し視点を小さく持って、「相手(友達とか恋人とか知り合いとか)が自分のことをどう思っていそうか」に対してギャップ萌えを狙っていってはどうだろうか。
コミュニケーションにおいて、自分の全てを相手に見せるということはそもそもありえない。相手に応じてある一部分だけを見せるのが普通であり、往々にして本来の自分と、周りから見えている自分というのは違うものである。
それをうまく利用して、自分の見せ方を調整していくことで本来の自分から離れた行動をしなくてもギャップ萌えを生み出すことができると僕は考えている。
例えば僕は、相手のことが尊敬できる強い人間だと思った場合、わざと自分を大きく見せるようにしている。得意分野の会話(音楽だとか絵だとか)に持ち込むと最初は僕のことを結構優秀な人だと思ってくれるだろう。もちろん最初だけなのだが。
しかし考えてみてほしい。あなたは頭も良くて運動もできて芸術も得意な優秀な人に褒められるのと、まあ自分と同列か格下かみたいな人に褒められるのとどちらが嬉しいだろうか。
おおよそ多くの人は前者の方を選ぶだろうと思う。特に自分に自信を持っている人は尚更だ。
ということは一度自分を大きく見せておくことで、自分が劣っている他の分野の話が出てきても、相手のことを褒めておけば優秀な人から褒められたという感触を受け好印象を与えられる可能性が高いのである。
これがもし最初に謙って入ってしまうと、褒めてもお世辞おべんちゃらに聞こえてしまって相手にしてもらえないなんてことになりかねない。
逆にあまり自分に自信がない人と接する場合は、情報をあまり公開せず寄り添うようなスタンスの方がいいかもしれない。徐々に得意なことを公開していくことで自分の隣にいる人はこんなにも信頼できる人なんだと安心感を与えていける。最初からオラオラと自信満々に行くと殻に篭られてしまいがちである。
他にも、僕の感覚的なものだが、真面目な人と接する時には意外とマイペースなスタイルから入った方がいい気がする。真面目な人は自分にないものを尊敬する傾向にある(?)気がするので、自分勝手に生きているかのような見た目をしつつそれとなく気遣いを入れるとかが一番刺さるんじゃないだろうか。
しかしマイペースな人間に真面目なスタンスを取るのは良くない。線を引かれてしまう。マイペースな人間にはこちらもマイペースにいくのだ。
とここまで特徴別に並べてきたが、あることに気づいてしまった。
良く見ると人間関係は自由気ままに生きているまあペース人が最強ということになっているではないか。
これは突飛な結論に見えるがあながち間違いとも言えない。自由気ままに生きれるというのは確固たる自我を持っていて自信がある証拠とも言えるため、初対面で魅力を感じられやすいのだ。
気を遣うにもただへりくだるというよりは、重要なポイントでだけ下手に出るというスタンスの方がポイントが高いのである。
だが気をつけてほしい。マイペースに憧れて周りの真面目な人がやっていることをやらないのはただの天邪鬼である。マイペースな人間はある種自分に対しては真面目なのだ。ただ言うことを鵜呑みにするわけではないだけで、意外としっかりしていることも多い。
自分の特性を理解し、その中でうまく開示する順番を変えていく。これこそが人を落とすリーサル・ウェポンの作り方なのだ。