Enjoyable 人生(2024/8 エッセイ集)
途轍もなく恣意的に選ばれた8月のある日
P.M.13:00
今年も夏がやってきた。
空になった部屋、つい朝までは活気に溢れていたこの場所も13時に起きる頃にはすっかり冷たさを取り戻している。
机の上には洗われず放置されたマグカップ、もう今日は生産的な活動は見込めなさそうだ。
タイマーの切れたクーラーを付け直し気だるさの中起き上がる。到底人の生きていける暑さとは言えないのだ、電気代が云々など騒いでいる場合では無い。
さて、今日の晩御飯はどうしようか。一時の快楽は幸せの天秤をいとも簡単に壊してしまう。7時間の幸福は即ち11時間の孤独であり、その孤独は新たな幸福への渇望に他ならない。
とりあえず外にでもでよう。世界は主に昼に活動を行っている、せめて買い物ぐらいは済ませておかないことには生活は維持されない。せっかつくつけたクーラーだが直ぐに消すことになりそうだ。
P.M.15:00
八百屋に並ぶ野菜を比較し何を作るか考える。大抵優れた野菜というのは玉ねぎとか人参である。何せ1人前というのはあまりに少ないのだ、1つの料理にしか使えない野菜を買っているようでは5食は同じ食事になってしまう。(ex.蓮根、これは痛い目を見た。)
大してやる気も起こらないがとりあえず豚バラと玉ねぎと適当な野菜1つぐらい買っておけば困ることは無いだろう。最近のお気に入りは茄子である、焼こうが炒めようが煮ようが何をしたって美味しい、比較的量を消費しやすいのも良い。
P.M.16:00
現代人にとってもはやSNSは必須ツールとなってしまった。僕はあまり好きな方では無いがとはいえLINEぐらいは見る必要がある。
未読は20か。取り敢えず紅茶でも入れて腰を落着けてから考えよう。
一応毎回期待はしてアプリを開くが、大抵来て欲しい相手からはLINEは来ないものである。まあたとえ来たとしてもどうせ直ぐに返信するのだ。結果は同じで凡そ残った未読の返信は億劫な行為である。
2,30分眺めたのち、返信は諦めた。だいたいこういうことを考えると頭の中が眠気で埋め尽くされてしまうのだ。
眠気に抗うというのは実に難しい。噂に聞く理性的な人間とやらには容易い行為なのかもしれないが、僕は出来損ないの動物なので眠気には直ぐに服従してしまう。ごめんねみんな、おやすみ。
P.M.18:00
眠りから醒める。5時間を費やし振り出しに戻る。あわよくばもう少し寝ていたいのだが、そうもいかない。驚くべきことに、米を炊くのには1時間かかるのである!
ここには話し相手もいなければタイムマシンもない、この1時間の投資を後回しにするのは得策とは言えないだろう。
(寝ていただけなのにお腹は空いているのだ。)
料理は実はとても簡単な行為である。切って炒めるか煮れば大体のものは完成する。どうせ誰も文句をつける人は居ないのだから出来栄えは割とどうでもいい。
P.M.20:00
晩御飯を食べる。案の定料理は余ったため、冷蔵庫にでも入れておく。
P.M.21:00
単純な話である。Youtubeを見ているか、曲でも作っているか、まあそんな所で寝たくなったら寝る。特筆すべき事象は何も無い。
P.M.23:00
未だ状況は変わらない。せいぜい机の上に出したティーカップから紅茶が消えたぐらいか。
A.M.1:00
就寝。睡眠は人間にとって根源的な行為である。一時的に死んでいるようなものだが、その実精神の再構築が行われているとでもいえよう。僕がことあるごとに眠気を感じるのも、ある種の防衛反応、現状を打開するために破壊を求めているのかもしれない。
この部屋の中では僕が1人眠る。また別の部屋では誰かが1人眠るのだろう。
ああ、会いたい。
Word leader
僕達が使っている語彙は日々変化している。
死んでいく言葉もあれば、爆発的に普及する言葉もある。
「ヤバい」とか「エモい」とか「アツい」といった単語がその一例であろうか。
これらはある特定の意味を持つというよりかは、何となくいい、何となくすごいといった言語化の難しい不明瞭な状況に対して汎用的に使える言葉として今や日常会話でも幅広く使われている。
しかし、こういった曖昧な単語はどこから生まれてきたのだろう?
見たところ芸能人の名言だとか企業のコマーシャルといった類ではなさそうであり、恐らくネットとか若者コミュニティの間で口コミによって広がったものだと思われる。
ということは、僕の身近なところにもこういうよく分からない単語を広めた人間がいるかも知れず、更に言うと僕が新たな単語を広められる可能性もあるのではないか?
そこで僕はこういった言葉を広めていく人々のことを、言葉を読むreaderではなく言葉を率いるleaderとして、word leaderと呼んでみることにした。
なおこの単語は別にダサいので全く広まらなくていい。
ともかく、都合のいいことに、僕はちょうど今広めてみたい表現を幾つか持っているので、新米word leaderとしてここに紹介してみたいと思う。
まずは「深い」という単語。現在でも奥深いとか興味深いに代表されるように学術的、芸術的に探求の価値がある際には使われるが、僕の周りのコミュニティでは最近もっと汎用的にこの深いという単語が使われている。
例えばこういった会話である。
「今日の昼ごはんどうする?」
「敢えてのつけ麺とかどう?」
「それは深いね」
見てもらえれば分かるように、大体肯定とか同意を表すのだが、少しだけ新たなニュアンスが含まれており、単なる同意というよりかはアイデアを評価するといった意味合いが強い(気がする)
これがラーメンを提案していた場合、たとえ賛同していても「深い」とはならない。「いいね」とかになるのだ。
次に「〜してもいい」と言う表現。たまに「〜したっていい」に活用される。
これは一般には弱い同意を表し、全面的に賛同するわけではないが不都合はない、といった感じのニュアンスでとられるが、僕は最近これを強い肯定として用いる用法を流行らせようとしている。
「なんなら今日うち来る?」
「行ってもいい」
といった感じである。
もちろん仲のいい間柄でない場合強い肯定ととってはいけないことは注意だが、少なくとも今僕の周りでは割と全肯定の意で用いられている。
おそらくどちらでもいいから選択権を相手に委ねる、といった要素が転じて、君の言うことに従うよ!的な意味にとられる様になったっぽいのだが、回りくどい分可愛らしくて中々いい。
勿論大して仲良くない人との会話だとただ紛らわしいだけだが、ある程度近い関係だと、行きたい!と堂々と宣言せずとも全肯定の意を示せるということで、恥ずかしさが緩和されいいと思う。
とりあえずこの2つぐらいを流行らせてみたいのだが、いかがだろうか?
おまけ
8月はあまり執筆の気分が乗らず、休む気でいたのだが、とある事情で2本だけではあるものの載せておくことにした。
大抵ブログに載せることというのは僕が1人の時に考えている。このエッセイたちも日記の様であるが、実際には日記というよりはアイデアを書き留めておくメモ帳に近い。
そもそも信条として僕はあまり他の人との関係について口外したり仄めかすことをしない様にしており、遊園地に行った画像をインスタにあげるとか今日したことポストをXにするとかそういった類の行為は行わない。
つまりこのブログにいる限り僕という存在は常に孤独なのである。社会の中にいる人間ではなく、一個人としての姿がそこにある。
そして8月に関していえば、個人として面白いトピックが非常に少なかった。
新たなものを生み出すというよりはコンテンツ消費に費やされた1ヶ月だったかもしれない。
そしてこの傾向は放っておくと今後も加速していきそうである。僕はどんどん社会の歯車へと変貌を遂げていくのだ。
これが抗うべき動きなのか、従うべき動きなのか、僕は未だ計りかねている。しかしある程度上手く生きようとすると、自由な意思や発想を自ら制限することがどうやら必要なのは間違いないようである。
僕の未来はどうなっていくのだろうか。Let’s dive into an enjoyable 人生.