眠れる獅子〜学費値上げ問題について〜
青天の霹靂
5月15日、それは突如現れた。
東大が学費値上げを検討しているというリーク情報。
当然何の前触れもなかった値上げ情報など受け入れられるはずもない。学生間では急激に不安と疑念が巻き起こった。
これを受け学生自治会は翌日情報公開を要請。
固唾を飲んで返答を待つ中、同日夜なんと東大当局から事実だと認める旨の発表がもたらされたのだ。
うきうきキャンパスライフを過ごしていた新入生たちは、わずか1日1夜にして今なお続く混乱の渦に巻き込まれることとなったのである。
しかし焦るにはまだ早い。この時点では所詮は検討段階、学費値上げという学生に直結する重大な決定を秘密裏に進めていたのは俄かに信じ難いが、決定された事実というわけではない。
そして我々には「総長対話」がある。ここできっと明確な説明が行われ、議論交渉の場が与えられるに違いない、いや、与えさせなければならないのだ。
教養自治会は学費値上げ検討を一方的に進めさせまいと総長対話に望みをかけ要望書を提出した。
ここで生まれたのが「「総長対話」に関する要望書」への回答と称した伝説の文書である。
せっかくなので原文を少しだけ引用させて頂く。
3 「総長対話」の形式は「学部交渉」形式とすること
回答)総長対話は総長と学生の対話の場であり、交渉の場ではありません。
今回も、通常の総長対話と同様の開催形態となります。
4 「総長対話」は学生の理解を得られるまで複数回行うこと
回答)総長対話は交渉の場ではありませんので、理解を得られるまで複数回行うことは考えていません。
https://drive.google.com/file/d/1JNqt93Y1gvjVjUFkBFt2C0t01DqLq-KB/view?usp=sharing
この回答が意味することは何なのか、一読しただけでは理解できない方も多いだろう。
いや、理解できないというより、理解したくないと言うべきか、まさしくこの回答は我々生徒が学費値上げの検討に関与することを完全に否定した、学生自治たるものの終末を意味するものなのである。
こんなものみすみす放置しておくことは当然できない、Twitterでも事態は大荒れ、対話の意味を辞書で調べるものは後を絶たず、学費値上げ問題はここに深刻さを一層増すこととなった。
その後の教養自治会の活動は目覚ましかった。全学一斉アンケートを行いその回答者数は2297名、強制力のないアンケートでありながらとんでもない回答数で、学生たちが学費値上げに無関心であるどころか、むしろ主体的に異を唱えていることを明らかにし、学生の声をデータという形で武器にすることに成功。
また全駒場集会ではアンケートの集計結果発表、國分先生など協力して下さる先生方のスピーチ、学生有志によるスピーチが行われ、来たる総長対話に向け確固たる反対の姿勢の共有が行われた。
私もバイトにより序盤だけの参加となってしまったものの、國分先生の「援助基準を200万円ぐらいぐらい上げておけば許されるだろう、といった学生を舐めた態度が僕は許せない」と言った旨のスピーチには心打たれるものがあった。
そして迎えた6/21夜、総長対話。
1週間前だったか、までの事前申し込みが必要という学生の声を聞く気があるとは到底思えない酷いシステムではあったものの、直接総長に発言を求めうる場としてかなりの関心は集められていた。
とはいえ先の声明をみるにまるで期待ができるものではなかったわけだが。
さて、その結果を端的にお伝えしよう。
これは対話と呼ぶに相応しい、いや、形式上のお喋りと呼ぶに相応しいものであった。
もはや対話をしたという事実さえ取れればいいというような印象さえ受ける姿勢、まるで国会答弁を見ているかのような、検討・未決定のオンパレード、言ってしまえば「事前の想定と何ら違わないもの」であったのだ。
さらに安田講堂前で講義を行なっていた学生たちに対してあろうことか当局は警察力を導入。50年以上も前、東大紛争の最中取り交わされ、確認された東大確認書における学生自治と、学内問題解決手段としての警察力の否定はここに堂々破られ、緩やかに衰退を始めていた学生自治は死亡診断書を突きつけられたのである。
50年の時を経て、学生自治は、「学生からの主張に対する抵抗」などではなく、「秘密裏に行われた学費値上げ決議に対する反対運動」という当然の帰結に対して侵される、実に無様な、下らない死に様を見せたのだ!
しかし学生の運動は完全に水泡に帰したのかというとそうではない。
7/3、東大は学費値上げに関する決議の見送りを決定、モラトリアムに過ぎないかもしれないが、それでも一連の運動は一つの身を結び、そして今後も続いてゆくだろう。
当記事執筆時点での東大当局と学生自治会の抗争はこのような顛末であった。
さて、本記事では学費値上げに関する一連の騒動について、私なりにその意味するところと我々が取るべき行動について検討してみたいと思う。
あくまで本記事は検討段階であり、何ら決定を行なっておらず、読者の意見を対話によって取り入れ最終的な結論を導きたいと考えていることは留意いただきたい。
大学の価値
ひとまず学費値上げ運動への言及の前に、東京大学は今なお素晴らしい機関であるという私の考えを伝えさせていただきたい。
当初私は大学へさほど期待を持っていなかった。
良い研究者が多くいるところは認めるが、それは良い教師であることを全く意味せず、教養課程の生徒に対して心血を注いだ講義が行われることなどあまりないだろうと予想し、大学は出会いの場としての側面と図書館の利用が出来ればいいかななどと考えていた。
しかし大学の教授は想像よりも学問に真摯であった。
受験勉強詰め込み育ちの若造である新1年生にも見下したような態度など一切とらない。
講義時間は愚か講義後の質問に対しても時間の許す限り応えて下さることがほとんどであり、おそらく専門で学んだ人には一般常識というのも馬鹿らしい様な内容だろうに丁寧に理解を与えて頂ける。
学部生に対する講義など研究への利益は微々たるものだろうに、私の浅はかな予想は見事なまでに良い意味で裏切られた。
取るに足らない雑談だとか良質な入門書の紹介、資料を交えた面白い体験談、駆け出しの18歳が得られるにはあまりにも恵まれている情報、経験が東京大学にはあるのだ。
ここで再確認したい。我々は真に非難すべき対象を誤ってはならない。
確かに学生自治は死んだかもしれないが、東京大学という機関がその意味を失ったわけではないのである。
むしろ私の感覚からすると、64万円ですら対価としては安過ぎるほどであり、このサービスが年間52万円で受けられるということが異常なのだ。
考えてみて欲しい。大学に所属する教授たちは人生をかけて1つのテーマに臨んできた猛者たちなのだ。自分の好きなテーマに関して、その分野に一生を捧げている教授の考えを何の対価も無しにお裾分けして頂けるのだから、たとえ1授業5000円の価値だとしても13コマ×14授業を取れば91万円、講義だけで考えても割高とは到底言えないだろう。
この点において、学費値上げ反対運動は、「学費」値上げ反対運動ではなく「学費値上げ」反対運動であることを今一度明確にする必要がある。
学費が値上げされること自体には、「正当な理由」があれば許容できる、あるいは仕方ないと思える学生はかなり多いのではないだろうか?
言ってしまえば年間52万円が出せて64万円が出せない人はそう多くはないだろう。もちろん望むところではないのは確かだが、学費を断固として維持し続ける結果、教授の給与が著しく低くなり研究環境に耐えられず大学を出てしまう、なんてことが起こるよりはマシである。
蛇足ではあるが、このことについては扶養に関わる103万の壁の方がよっぽど重大な問題の様に思われる。労働をしてでも学びたいと言う学生にその権利すら与えられない、結局親にかかる税金が増えてしまい差し引き0となるようではむしろ学費値上げより学業の機会を失わせているのではないだろうか。
今の日本で103万円など微々たる額である。時給1200円でも月75時間程度、上限値とするにはかなり短いし、学費を払って食費を月3万としてもそれだけで100万弱になるようではバイトで学費を賄おうなど現状ですらかなり厳しい。
ともかく今回の件がどうなるかは不明だが、物価上昇、研究費不足は揺るぎない事実であり、学費値上がりは遅かれ早かれどこかで敢行されることになるだろう。
「学費」値上げに反対することはあまり有益ではない。それは値上げを恐れて内容量を減らすステルス値上げのような事態を産みかねない行為だからだ。
我々がすべきことは、学費を値上げするべき時に正しく値上げが出来るようにする、すなわち生徒、教員、運営いずれの了解も得た形での意思決定を行えるよう、決議プロセスを明確にし続けることに他ならないのだ。
是非ともこの目的を明確にした上で本記事を読んでいただきたい。
物語の消失
さて本題に戻ろう。
学費値上げ騒動は、事の一部始終を観測していても、やはりあまりにも馬鹿げた争いである。
学生の意見など完全に無視して事を進めようとしたところ咎められた、というだけのものであり、共に正義を持った交渉には程遠いものなのだ。
どうしてこのような騒動が起きてしまったのだろうか。大学側の楽観的予測はあっただろうが、それにしても学生を舐め過ぎていると思わざるを得ない。
私はここに、大学、ひいては社会一般の若者の間に広がる一種の虚無感を見たいと思う。
現在の日本で流れるニュースといえば、円安だとか少子化だとかコロナだとか戦争だとかネガティブな内容ばかり、高度経済成長期のように追いつけ追い越せの精神など持てるはずもなく、今の日本は定年後のセカンドライフの中で終活を行なっているような状態である、
そこでは、「国家や大学組織が我々を救ってくれる」といったような夢物語は成立しない。落日を眺めながらいかに苦しみなく死にゆくかを考えるのが、現代社会を生きるということなのだ。
SNSの普及も間違いなくその一助を担っているだろう。
Instagram・Tiktok・Twitter…今やほとんどの人が利用しているこれらのアプリだが、その使われ方は些か不合理なものである。
流行りの音楽に合わせてダンスを踊ったり、食べた料理の画像をあげたり、鍵アカウントで愚痴を吐いたり。
そこに何かを伝えたい、発信したいという新進気鋭の精神はない。
世界の人々に発信ができるというその性質はもはや失われ、むしろグループの仲間意識を強化するために利用されているのだ。
本来我々は一人一人違った人生を生きているはずなのだが、SNSに支配される人々はオリジナルな人生を生きることを目指しはしない。
自分をコンテンツ化し無理矢理既存の集団に捩じ込むことで何とか村人Aとして粗相をせず生きていくことを望んでいるのである。
こうした状況の中で、東大当局は「現在の学生には学費値上げという問題に声をあげる力はないだろう」と考えたのではなかろうか。
全ての人が村人Aとして生きることを目指すのであれば、大学という権威に対して声をあげて立ち上がるという行為はリスクでしかない。
甘んじて現状を受け入れさざ波すら立てず生きていくのが理想なのだから、一匹狼となっても反体制を貫くなど以ての外である。
「せいぜいTwitterで学費値上げに対して愚痴を吐き、しかし現実では何の動きも起こすことはなくなけなしの金で買ったフラペチーノの画像をInstagramにあげTikTokに投稿するダンスの練習でもするのが関の山だ」
このように大学は、意識的にか無意識にかは知らないが、捉えたのだろう。
非常に舐められた考えである。
ここにおいて我々は、魯迅『賢人と愚者と奴隷』でいうところの奴隷に他ならない。
大学当局に我々は、所詮は奴隷に過ぎない存在であると主張されたのだ!
しかし何という事だろう、当局が想像しているより遥かに我々は愚かであった。
ところがこれは当然の帰結ともいえる。あの馬鹿げた難易度の入学試験を、愚直に与えられた情報を詰め込む事で突破してきた者たちなのだ、まともな感性などあろうはずもない。
懸命に社会から身を隠しそれなりに上手く生きようなどと考えている人間はそもそも東京大学には入れないのだ。
結果学生アンケートは2000を超える票を集め、学生自治会は縦横無尽の活躍の末、学生自治の死亡診断を受けながらも検討の延期に成功、取り敢えず一次ラウンドは勝利を収めたのである。
ここに私は確かに希望を見出している。
大学という機関をただ卒業証明書を貰うための予備校ではなく、守り引き継いでゆくべき素晴らしい空間として捉えている学生たちが今なおこんなにも残っているのだ。
学費値上げが敢行されたとしても現在の学生たちは基本的に何ら影響を受けない。院進の場合は別とはいえ学費は据え置きのまま卒業できるのだから、人生の踏み台としてのみ大学を見るのであれば値上げに反対する理由はまるでないのである。
にもかかわらず、現に反対運動はこれほどの規模で行われた。東京大学、ひいては学問を守るために我々は立ち上がったのだ。
コンテンツへの反逆
近世以降、資本主義社会への移行により全てのものは金銭に交換されるようになった。そこではそれぞれ独立した価値を持っていたはずの物たちは、全て同じ物差しで測られる。
このことに対する批判は星の数ほど行われてきたわけだが、しかし現代社会においてはその物差しすらもはや通用しない。
今やコンテンツとしての消費可能性が全ての価値を決めてしまっているのだ。
生きている人間一人一人はGoogleのビッグデータの一員か、あるいはSNSの海の閉鎖コミュニティを維持する構成員にすぎない。
世の風景、事象は全ていいね稼ぎの道具に堕落し、ネット上ですら必死で自分の幸せを主張しないと生きていけない、ディストピアが広がっているのである。
まだあらゆるものに交換可能な金銭にやって価値が決定されるなら、金を稼ぐというモチベーションを人々は産むことができた。しかしいいねを稼いだからなんなのだろうか。鬼のようなスピードでスクロールされていくスマホの画面において、一つのいいねは次の瞬間には何の意味も持たなくなる。
明確な目的を持たずただ無限に承認を求めて日常・自己をコンテンツ化していくのが現代の人間像である。
ところが大学機関はこれに抵抗する価値を持ちうる存在と言えやしないだろうか。
大学での学問研究は、稀に現実社会に適用されるものもあるとはいえその多くは無意味なもの、「遊び」に過ぎない。
結果的に世の役に立ったとしても、それは因果で結ばれたものというよりかは単純な探究心がたまたま良い帰結を生み出しただけである。
つまり学問はコンテンツ化を受けていない最後の砦なのだ。
学費値上げに対する反対運動は、金銭的な問題に関する争いでは全くない。
商業化、コンテンツ化から学問を守るためには、大学当局の一存で学費が変えられる、大学の体制がかくも容易く破壊されることを許してはいけないのである。
50年前、血と汗を流して勝ち取られた学生自治は、自由だ自由だといっているうちに刻一刻と歳をとってしまいには死んでしまった
だがそこに命をまた吹き込むことができるのは、また学生に他ならない。
なぜなら学生自治はfreedomではなくlibertyなのだから。失われても取り戻すことができるのだから。
個人として
我々1人1人に出来ることはそう多くない、今回の反対運動だって安田講堂前で抗議を行ったのは一部の意欲ある学生たち、その数せいぜい20名程度に過ぎないものだった。
かくいう私も講堂まで行って抗議デモに参加したことはない。集会や総長対話には顔を出すことも多いが、自分の生活だってあるのだから全てを捧げることは当然できないのだ。
この点で全員が反対運動に参加することを求めるのは現実的ではないしそうするべきでもないだろう。
しかし動きを起こさないサイレントマジョリティ達はなんの意味も持たないのかというと決してそうではない。
20人の抗議が警察力を呼べるはずがないのだ。
やはりその裏に数十人の安田講堂には来なかったが積極的に運動を支援する協力者たち、そしてその裏にアンケートに回答した2200人の学生たちがいたからこそ、たった20人の運動がこれほど大学当局を脅かしたのである。
全ての学生が値上げに反対する必要はなく、ましてや運動に参加する必要もない。
ただそこに学生自治という概念があり、学生の意思決定の権利は守られるべきものなのだという認識があればいいのだ。
私は人々の意識の表明がこれほどの力を持つ例を実際に体験するのは初めてだった。何も動かない人々は無価値であると考えていたことすらある。
しかし現実はそうではなかった。
本記事を書こうと思い立ったのもそういう経緯あってこそのものである。
この記事を読んで下さった東大生、そしてそれ以外の方々にも、是非とも問題を認識している、観察者としての役割を少し担って頂きたい。
眠れる獅子ほど恐ろしいものはないのだ。