One for all, all for me
水族館セラピー
3日ほど前、水族館に行ってきた。
チョウチョウウオ、タツノオトシゴ、イトマキエイ…
水槽の中を泳ぐ色とりどりの魚たち、見ているだけで荒んだ心が浄化されていくようである。
しかし僕の心は相当に荒んでいたようで、水族館に来てなおこんな野暮なことを考えてしまった。
「この魚たちは水槽の中にずっと閉じ込められ苦しくないのだろうか?」
こんなことを常々思っているようでは人生さぞかし生きづらいことだろう…
ストレスの測定によって苦しさを測定できると考えればもちろん科学的なデータか何かはあるだろうが、面倒だし魚の気持ちがわかるわけではないので客観的事実がどうかは一旦棚に上げさせて欲しい。
それよりも興味深いのは、客として水槽を眺めている人間が魚に対しこのような疑問を持つことなのだ。
「井の中の魚大海を知らず」とは言ったもので、十分な餌を与えられ水槽の中を縦横無尽に泳ぎ回っている魚たちは少なくとも生命意地という面では満足のいく生活である。
しかし外に出る権利すら与えられていない状態は観察者の我々からすると「不自由」と捉えることが出来てしまう。
ここで思い返されるのが旧約聖書におけるエデンの園の話である。
僕は聖書に関してさほど深い知見は持っていないため、非常に雑な説明となることをお許しいただきたい。
アダムとエバはヤハウェによってエデンの園を耕すことを命じられ、その園の中にある果実は自由に食べてよい、ただし善悪の実だけは食べてはならない、食べた場合必ず死ぬと伝えられた。
しかし地上にいる生き物で最も賢く狡猾であった蛇がエバを唆し、アダムとエバは善悪の実を食べてしまう。
これによって知識を得た2人は、自分たちが裸であることに気づき腰に葉を巻くようになり、またヤハウェの怒りを買ってエバは苦しんで子を産まなければならない裁き、アダムは苦しんで働かなければならない裁きを受け、エデンの園を追放された。
ざっと要約するとこうした話が旧約聖書にあるのだが、水族館の魚も同じような状態にあるように僕には思われる。
水槽の中という限られた環境であるが、食事は十分に与えられ外敵もおらず平和に暮らしている、そのような世界が、旧約聖書ではエデンの園として描かれているのだが、果たしてこの世界は幸せなのか、それとも無知による不幸なのであろうか?
聖書的に解釈をするのであればエデンの園は理想的な空間といえよう。しかしこれは批判の対象ともなりうる。神がある種アダムとエバを煽っているような面も明らかに見られるし、ある種無知からの解放を唆した点で蛇は救済者も捉えられるのだ。
ここで我々を神の立場、泳ぐ魚をアダムとエバの立場と考えてみよう。我々は魚に満足のいく環境を提供し、水槽という限られた環境に閉じ込めているため、水槽の中の魚をかわいそうだと思うその考えは、蛇を肯定する発想、不自由とはそれ自体が苦しみであると見ることに他ならない。
ここから宗教的立場による善悪の議論をすると果てしない旅となるのでこの記事では一旦そのような観点はとどめさせていただくが、一般論として人は観測できる不自由に対しては不満、劣等を感じる傾向にある。
しかしこの不自由を観測しなければ、そのとき人は劣等を一切感じ得ない、今この瞬間も我々は無知による著しい不利益を被っている可能性があるのだが、認知し得ないためなんの問題もない。
不自由であることを仄めかされた途端に人は確かに不自由になる。
不自由からの脱却は不自由からしかなし得ない、不自由の無知は常に不自由を知覚してしまう危険を孕んでいるが無知である限り不満はない、このどちらを是とするべきなのだろうか?また他人の不自由を認知できてしまうことは知識を得た代償となる無限の苦しみなのだろうか?
我々は元来無知である。知らないことの方が知っていることより遥かに、そして限りなく多い。周囲の無知を知覚してしまうことは至極当たり前であり、全く同じ環境で育ってきた集団でもない限り、お互いに相手の不自由を認知しあっている。
しかし(非常に特殊なことに)我々は周囲の人間とおおよそに通った特徴を持っていることが多いのだ。同じ学校で育っていたり、同じグループに属していたり…
その結果不自由を悪とする価値観が生まれてしまう。非常に傲慢なことに自分の持っているものを相手が持っていないことは劣等であり、逆も然りである。
どうやら魚などに不自由を感じてしまうあたり僕もかなり毒されているようだ。
水の流れは美しい、光の屈折は流れと相まって偶然の瞬間を常に生み出してくれる。不完全性、偶然性を美しいと思う感性は我々が生来持っている、不自由からの脱却手段なのかもしれない。
ああ、明日からはまた大学だ。水族館で癒された心も5日間で濁りきってしまう。来週は美術館にでも行こうかな。
出会いと別れと現状維持
あんまり一般化して話すのは良くないが、日本人は比較的集団意識が希薄な民族だと思う。
協調性に重きを置く一方で、実のところ個人個人が周りの空気を読み合っているだけであり、生きているだけで属することのできるコミュニティはそう多くない。
キリスト教圏なら日曜日の教会、イスラームならモスクでの金曜礼拝のように宗教があればそれに伴う礼拝の儀式で人々が集まったりするわけだが、日本は緩い汎神論のようなものなのでそういった会合はなく、かといって血縁や地縁による共同体も強固なものとは言い難い。
僕は大学生なので一応大学に居場所があるといえばあるのだが、それも他人と関わる必要がある場所ではなく、言ってしまえば1人で行って1人で帰ってくれば誰との関わりもなく終わってしまう。
つまり自分で予定を入れたり関係を構築しなければ真の意味で1人になってしまうのだ。
バイトだって同じ場所でたまたま働いているだけで、考えや価値観の共有は行われていない、辞めて仕舞えばはいどうぞでそこまでである。
さて、3月末から東京に来ておよそ3ヶ月、春は出会いと別れの季節とは言ったものだが、確かに僕も多くの出会いと別れを経験した。
それは元いた友達との「別れ」と新たな人たちとの「出会い」に限った話ではない。
新たな人たちとの「別れ」、そして元いた友達・新たな友達との「現状維持」も行われているのだ。
一度興味を持って話しかけては見たが、あまり自分とは合わなかった時には、「出会い」とほぼ同時期に「別れ」が発生する。
またふとした出会いで関係を持ったが、学校や職場は違う場合、もう少し関係を深めたいのにそれが難しいことも多い。
そしてなんといっても「現状維持」である。今まで築いてきた関係も、突然切れるわけではないにせよ出会いが増えれば増えるほど希薄なものになっていく。
しかし新しい出会いの方が常に良いものとは限らない。むしろ感覚としては逆で、古くからの関係ほど良いものが多い気がする。(これは論理的な善悪ではなく、関係が長い方がお互いを分かり合っているからだろう)
そのため、残したい関係に関しては明確に「現状維持」の動きが必要なのだ。
久しぶりに遊びにいくだとか、どうでもいい雑談のLINEをするだとか、昼ごはんを一緒に食べるだとか…
前に進む、新しいことをするばかりが幸せへの道とは限らない。今あるものをいいと思い直すことだってまた前を向いて進んでいるのだ。
いつだって人は別れるか現状を維持するかの選択を迫られている。春は出会いの季節だが、別れの季節はいつだって訪れ、現状維持の季節もまたフルシーズンなのかもしれない。
独占欲の話
人は誰だって独占欲を持っている。
しかしその感覚の擦り合わせが行われることは稀であるため、僕の持つような独占欲と、周りの持つそれが同じ物なのかは些か疑問が残るところである。
そこで今から僕の独占欲とやらを言語化してみようと思う。
まずここで僕が示すような考えは、恋人やパートナーと言った特定の関係にのみ起きるようなものではなく、もっと一般的な物である。
例えば僕の友達(僕が男なので男友達としよう)が他の人と楽しそうに喋っていても、やはり僕としては面白くない。
大それた話題からスタートした覚えはないのに、いつのまにかやたらめったら深い話になってしまいこうなるともうタイムリミットまで止まることはない。
休みの日に遊びに行ったとかいう話だと尚更である。
正直言って、僕は僕の友達全員に対して、他の誰よりも僕といる時が一番楽しくいられると思い込んでいる。
思い込んでいると言った通り、おそらく実際はそうではないのだが、気持ちの有り様の話で「誰よりも楽しませてやるぞ」という心持ちでいるということである。
なのであんまり他のところで楽しそうにされるとまあしっかり悔しい。別にそれは僕が駄目だという話ではなく、ただ他にも楽しませられる人がいたというだけなのだが、やはり圧倒的1位にはなれていないという点で悔しいのだ。
しかし冷静に考えると僕自信複数人を楽しませようとしているわけだから、相手にだけ1人に絞れというのは不合理な話である。
まあ独占欲なんてそもそも合理的なものではないのだからいいといえばいいのだが、一応自己矛盾を孕まないように僕の欲求を表現してみたい。
すなわち僕の目指すところというのは、「僕という人間個人に対する対応をとって欲しい」ということなのだ。
これだと大分抽象的なのでもう少し説明を加えると、人の態度というのは、1人に1つと決まった物ではない。
初めて会う人にはこういう態度、目上の人にはこういう態度、好きな人にはこういう態度…のようにいつくかの顔を持っているのが普通である。
つまり僕の目指すところは、「どっふぃーという人間に対してはこういう態度」というのを作らせることで、one of 様々な友達ではなく、固有性を高められたら嬉しいなと思う。
部分的独占というか、目の前にいる時だけは僕のために動いて欲しいのだ。
ダラダラと書き連ねたが、言っていることは面倒なメンヘラである。実際そうだし。
さて、この記事を読んでくださっている皆さんには、どれくらい共感していただけるのだろうか、是非感想を頂きたい次第です。
インフィニット与太話
少々重めの話が続いたので最後に気楽なトピックを一つ。
つくづく思うのだが友達との雑談は文字通り無限である。
つまらない授業の悪口を言っていたと思ったら、倫理の話になり言語の話になり芸術の話になり数学の話になりいつまで経っても尽きることがない。
最近したどうでもいい会話を一つ挙げておくと、上でも言ったが水族館に行った際、 魚たちの体積は積分できるかどうかがあまりに気になってしまい、正規分布の関数を弄ればエイの体積が出せるという馬鹿みたいな会話をしてしまった。
もうここまで来ると馬鹿みたいなのかどうかも良く分からない、知的といえば知的なのか?
あるいはロマン主義は過去に完全性を求める点で無限に自己研鑽が可能でありズルいなどという話もあった。知的なようで知識の無駄遣いである。
しかしこのような何を目指すでもない雑談から思わぬ発見が生まれることもある。このエッセイだって多くは雑談の中で思いついたことを書き連ねたような物なのだ。
実は人には「雑談脳」のような、有意義ではないが何か面白そうなことを繋ぎ合わせる能力があるのかもしれない。普段は出ない発想が、他人1人を介するだけで出てくるというのは実に面白いことではないか。
え?「お前のしてる雑談がおかしいだけで普通の雑談はもっと意味のない物なんだよ!」だって?
その通りかもしれません…
まあともかく何が言いたいかっていうと、授業なんか出ずに友達とずっと駄弁ってたいってこと。おわり!