総員集結せよ、手のなる方へ(2024/5/エッセイ集)
バイトの価値について
23:30、バイト先からの帰り道。
5月とは思えない昼の暑さから一転、冷たい風が仕事で疲れ切った頭を冷やしてゆく。
1時間と1200円のトレードオフ、決して割がいいとは言えないのだろうが、1人の大学生にとって1200円は端金では全くない。
少しいいご飯を食べることができる、カラオケに行くことができる、数時間働けば服だって買える。円安だろうが低賃金だろうが関係ない、1200円/hは僕の人生の豊かさを2倍にも3倍にも変えうる可能性なのだ。
さて、今日は17時から6時間の労働を生んだ、つまり7200円に相当する訳だが、果たしてこれを何に使おうか。
預金通帳の残高が増えていくのは最悪だ。こんなにつまらないことはない。なら夜中にケーキを食べてやろうか、いや、これは体に悪すぎる。お金を払って体調を崩しているようでは何がしたいのかよくわからない。
服に使うのもいいが、服は沼である、数万のオーダーで簡単にお金が飛んでいく。満足感は折り紙付きだがとはいえそういつも古着屋に足を向けるのはやめておくのが賢明だろう。
やはりここは食事に使うのが一番だ。一見腹の中に消えるだけのものにお金をかけるのはあまり益がないように見えるが、1日3食を毎日食べるのである。食事の満足度を上げることは全ての幸せにつながる。
美味しいパスタを食べるだとか、友達を呼んで鍋を囲むだとか、そういった小さな喜びが結局のところいつまでも残るのかもしれない。
食生活と1日の時間
ちなみに一人暮らしを始めて最も変わった点は食生活だと思う。
高校生までは夕飯というと1日の活動の終わり、もう晩ご飯を食べたら後は何もしませんよといった位置付けのものだったが、これが大学に入って完全に変わってしまった。
まずは晩ご飯を自分で作らないといけないし、作ることができるのだ。
作らなければ何も食べられないのは面倒といえば面倒ではある、しかし作ってしまえば食べたいものがおおよそ食べられるメリットはあまりにも大きく、今のところ自炊ライフもそれなりに快適なものである。
あとはバイト終わりに店の中華鍋を振って作るチャーハンが本当に美味しい。家の火力では決してこのパラパラ具合は再現できない。もはや無給でも元が取れている。
話が逸れたが、食生活の変化はこれだけではない。ご飯をいつ、どこで、誰と食べるかも全く決まっていないのだ。
5W1Hが情報の伝達には大事らしいが、WhatもWhyもWhereもWhoもないのである。決まっているのはWhy→お腹が空いたから、How→箸で(?)ぐらいのもの、自由度があまりに高い。
自宅で食べることもあるが、バイト先で賄いを作ることも多々あるし、友達の家に遊びに行っている日も少なくない。時間も自宅ならおおよそ7〜8時だがそれ以外なら全くの不定期、高校までなら発狂するような話だがもはやこれが日常なのだ。
食生活サイクルの崩壊は意外にも僕の感覚に多大なる影響を及ぼしている。というのも「やたら1日が長い」のである。
高校までの僕は割と規則正しい生活を送るタイプの人間だった(今も本質的にはそうといえばそうだが)。
18:00〜19:00 ピアノ、19:00〜20:00 夕食、20:00〜22:00 お風呂・youtube見たり課題したり、22:00 ティータイム、23:00 就寝といった様子である。
このような生活を送っていると、1日はほぼ18:00で終わりで、そこからはルーティンの時間となる。新しいことは18:00までにやり始めないと絶対に起こらない。
ところが今はどうだろう。初対面の人と晩ご飯を食べるだとか、友達の家に泊まるだとか、23:00までバイトをするだとか、とにかくとりうる選択肢が多い。家にいるにしたって本を読む日も音楽を作る日も颯爽と寝る日も(ろくでもない)課題をやる日もある。
この意思決定のプロセスと、利用可能な時間の長さ(要するに家に帰らなくていい)が1日を相当量延長しているのだ。
自立とは何か
延びた1日と増えた義務によって、一人暮らしはかなりの自己決定を要求してくる。
何をするか、何をしないかを常に問われ続けるのだ。
今日洗濯をするかどうか、1限の講義に出るかどうか、昼ごはんは1人で食べるか誰かと食べるか、サークル活動に参加するかどうか…
こうした中で人間としての自立が求められている…ようなのだが、これが不思議なもので、精神的な自立度は体感落ちている気がするのである。
親の存在が無くなった分と考えるべきなのかもしれないが、友達と連絡を取り合うペースは上がっているし、自制心も部分的には落ちている(お菓子をやけ食いするだとか、待ち合わせ時刻に遅れるだとか、やたらよふかしするだとかか)、メンタルも依然不安定なままで、パニックに陥ることも少なくない。
なんとなく自分はとても孤独なのではないかという意識が、友達への依存度を高め生活を不健全なものへと導いてくるのだ。
しかし冷静に考えると、自立とは一人で自らの全てを賄うことなのだろうか。人という字は人と人とが支え合ってできているらしいが、実際完全に一人で生きていくことは不可能であり、依存できる先を自ら作って増やしていく状態こそが自立なのかもしれない。
最近分かったことだが、どうやらそんな簡単にみんなは僕のことを見放してはくれないらしい。しばらくはこの現状に胡座をかいて散々依存させてもらうのも悪くないか。
このゆびとまれ
組織には、1人でいいが1人も居ないと困る存在というものがある。
その最たるものがリーダーであり、少々の強引さとバランス感覚を持って周りを引き寄せていく存在は間違いなく必要不可欠なものであるが、全員がリーダーだと組織は我のぶつかり合いになりはちゃめちゃなことになってしまう。
さて、リーダーは非常にわかりやすい例であったが、他にもこうしたポジションの存在はある。それが「このゆびとまれ」をする人だ。
ロケットを飛ばしたいだとか、会社を作りたいだとか、もっと簡単なところだと旅行に行きたいだとか、そういうことを言い出す人である。
これはリーダーと同じ出ないかと思う人もいそうだがそうではない。リーダーを兼ねることが多いかもしれないが、それは成り行きの結果であり優れた企画者が優れたリーダーである理由はどこにもないのだ。
ともかく具体的なプランのない状態で人を集められる存在は貴重なものである。何も成し遂げていないのに何かやってくれそうだという期待感を持たせられる人間のみが「このゆびとまれ」に値する。かなり高いハードルといえよう。
しかし難しいのが、集客力のある人間がいいプランナーとは全く限らないことである。むしろ漠然とした期待感を持たせるタイプの人は組織をうまく回すプランナーには向いていないことが多いかもしれない。
つまりこのゆびとまれをする人がいっぱいいたところで止まる指が増える以上の結果は生まれず、アイデア止まりのアイデアが大量に生成されることになる。
これでは非常に勿体無い。せっかく立てられた指、どう活かせばいいのだろうか?
ここで重要となるのが、指に止まる側の選択能力である。
いくら指を立てていたって、誰でも止まっていいですよーという訳ではなく、立てられた指を見て適切に自分が止まるべきか、そのグループで自分は活躍できそうかを判断することが必要なのだ。
2ヶ月間通って思ったところだが、大学という組織はこの問題が顕著に現れている。講義だとかサークルだとかゼミだとかで指はたくさん立てられている訳だが、適切な人間が綺麗に集まっているグループはそう多くないのだ。
こうした集団の多くは中途半端な異分子(というと怒られるかもしれないが)が混じることによってその価値を自ら落とすことになっている。
例えば音楽サークルで考えてみよう。
初心者お断りと銘打って音楽サークルを立てると人はあまり集まらない(初心者でなくても、初心者お断りのサークルに入れるほど自信がある人はそう多くないのだ)だろう。
ところが初心者大歓迎と銘打つとサークル内での格差を埋めるために熟練者達のリソースが割かれることになり、高いレベルの練習ができない。そひて結果的にそこそこの能力とそこそこの人数を持つそこそこの集団が完成する。
まさに、「真に恐るるべきは有能な敵ではなく無能な味方である」ということで、多くのサークルは中途半端な、なんとなく興味のある人たちの集まりでしかないのだ。
まだ音楽なら経験者も多いから比較的集団の成立は容易い。しかし、これがロケットを飛ばしたいなどの希少性の高い話になるといよいよ問題は複雑である。
ロケット作りの熟練者などほぼいない上に、「熟練者になるためには誰しも初心者のプロセスを踏まないといけない」わけだから、ロケット打ち上げのように目標の希少性が高ければ高いほど初心者を集めるしかないのだ。
こうなったとき組織として用いることのできる判断基準は1つである。「初心者が組織に有益な初心者たり得るかどうか」だ。
共に活動をしていくうちに新たな発見を与えてくれるだとか、チームのモチベーションを上げてくれるだとか、初心者であるけども育成過程でその価値を発芽していく存在を集めることが、成功への必要条件である。
そろそろ当初の話題に戻ろう。「適切に立てられた指に止まる」とは、自分が有益な初心者たりうる場所にいくということなのだ。
これは初心者・経験者に関わらずである。
経験者であっても、有益な初心者たりうる場所にいくことは必要なのだ。
自らの価値は経験未経験で決まるものではない。持ちうる全てを使って、経験者の中で自分だけが未経験者だとしても新たな価値を提示できるかが、集団における人間の価値だと僕は思う。
自分の価値と向き合い、適切な集団を見極める、既存の枠組みに甘えない。
指はいつでも立っているものではない、立てられた指に止まる準備を常日頃からしておくのだ。
集結せよ、手の鳴る方へ
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