「生きてるだけで偉い」はなんの助けにもならない

2023年11月22日雑記

TwitterがXに変わり早くも数ヶ月、もうTwitterと呼ぶと摘発してくるX警察なんてものも絶滅危惧種となりました。

僕も普段からそれなりにXを見るんですが、今日もいつものようにTLを眺めていたところ1つ気になるツイートを発見。

https://twitter.com/gyutei_4koma/status/1726425006148911547?s=46&t=dzi-kQqhxBY_J7d9IeVtCg

うーん、確かになあ。

なかなかに夢も希望もない話ですが、僕の周りをみていても結構疲れている人が多いような気がします。

かくいう僕もその一人なんですが。

しかしこれからの社会を担っていく若干18の少年少女が疲労困憊というのは由々しき事態。

ということで今日は若者の自己肯定感が下がっている件について少々考えてきたことを書き連ねてみたいと思います。

割と月並みな論調も多いですが率直な感想として受け止めていただければ。

SNSは善か悪か

SNSが蔓延る今の時代、高校生、中学生は勿論小学生でさえ当たり前にLineやらdiscordで連絡をしあい、YoutubeやX、Instagramを見ています。

そして全世界で発信された情報を簡単に見ることができる、いつでも誰でも投稿することができる、画期的なツールであるSNSは、私たちの社会における立場に劇的に変化を生み出しました。

「消費者」から「消費者兼生産者」へ

たとえばここに今僕が描いた棒人間の絵があります。

まあ誰でも描けるような非常に簡単な絵ですね。

これまでは、こんな絵を描いたとしても見てくれる人はいませんでした。

いるとしてもまあ家族か友達か恋人かに押しかけて見せるぐらいでしょうし、おそらく芳しい反応は帰ってこないでしょう。

しかしこのSNS時代、こんな小学生でも描ける絵でも、投稿してしまえば全世界の人々の見ることができる作品になるのです(実際に見てもらえるかはともかく)。

現にこの記事を読んでいるあなたは僕の棒人間を見た訳ですからね。

つまりこの棒人間の絵を投稿しただけで、僕は一人のクリエイターになったのです。

これはある人にとっては素晴らしい変化でしょう。何せ全世界に自分の作品が見てもらえるわけですから、これまで機会に恵まれず鳴かず飛ばずだった才能の持ち主にとってはアピールのチャンスに他なりません。

また、クオリティ、スタイルの異なる多くの人の作品を見ることができるのは、これから絵などの作品を作ろうと思っている初心者にとってもメリットとなります。

これは発言についても同じことが言えます。

家で一人で嘆いているだけだった崇高な思想を、衆目の届くところに発信できる。自分に全く関係のない人たちの意見を知ることができる。これがSNSです。

そう考えると誰でも平等に発信の機会を得られ、誰でも平等に他人の言動を知る機会を得られる。格差のない理想的な社会のようにも見えますね。

押し付けられた劣等感

ではSNSにおけるデメリットとはなんなのか。

これもまた、全ての人々が「生産者」であることに他なりません。

従来の社会においては、たとえば本を書くなら作家になろうと志し、出版社に本を持ち込む、あるいは自費出版をして、店頭に並べてもらい初めて人々の手の届くところに本が届くという仕組みでした。

一冊の本を世に出すまでの間にいくつもの過程を踏み、権威と信頼を得て、一定の覚悟を持った人間のみが初めて人々に本を届けることができたのです。

絵や音楽についても同様で、相当のクオリティと努力がなければ多くの人の目につく場所に発信するなど不可能でした。

しかしSNSのある今の社会ではどうでしょう?

何の権威も持っていなくても、クオリティが低くても、自由に発信することができてしまいます。

実際に何かを投稿するかはともかく、発信の手段についてはプロも素人も同じだけの武器を持ちうるのです。

言い方を変えれば、「生産者」と「消費者」という別の立場であった関係性から、誰もが「生産者の卵」でありそれをどれだけうまく孵しているかの違いのみが存在する関係性に変わったのです。

これによって人々は、望んだわけでもない自由競争の海に放り出されることとなりました。

これまではどこの誰かも知らないまるで異世界の人間がのように思っていた人が同じアプリで同じように投稿をする…

最近だとAdoさんなんかがいい例でしょうか。

圧倒的な歌唱力を持っているにも関わらず、従来のミュージシャンとは異なり顔を出しておらず、どうでもいいような日常ツイートもよくあり、実質歌の実力以外は匿名アイコンでツイートを垂れ流す我々となんら変わらないように思えませんか?(実際にはそんなことないかもしれませんが)

憧れの対象、演奏が上手いことは分かれど私生活は謎で未知の存在であったアーティストが、一気に我々と同じ土俵に立ってくる。

これは親近感を生み出す一方で、私たちに強い劣等感を抱かせる原因にもなり得ます。

「よく分からないけどすごい人だから」「生きてる世界が違う人間だから」と言い訳して自らの勝負する土俵から除外していたプロフェッショナルな人々が、「歌が上手い以外は私たちとなんら変わらない」などとわかってしまうと、逆にその差をはっきりと認識させられてしまい、「もっと努力をしていれば、もっと才能があれば自分も同じだけの魅力を持った人間になれたのかもしれない」という取り返しのつかない期待を抱くことになるのです。

このどうしようもない劣等感の行き場を我々はどこに作ればいいのでしょうか?

本来武器を持たない人間の自己表現の方法であった絵画や音楽、文章、ダンスなどの芸術分野ほど、SNSにより一流の人々との差を如実に感じやすく、逆に打ちのめされやすい環境なのです。

かといって芸術ではない実務分野で競うとなると、それこそ現実世界での能力の差が浮き彫りになるため、なんの解決策にもなりません。

となるとどの分野でも超一流ではない人たち(それがほとんどですが)にできることは何か、それは「自らの無力を認め勝負を諦めて無気力に生きる」ことぐらいしかないのです。

戦えば戦うだけ劣等感を強く感じていく中で新たな希望を持って生きることがどれほど難しいか、想像に難くないでしょうし、実際これで悩んでいる人も多々いると思われます。

生きる意味を見出すために

それではこの現状を解決するためには何が必要なのか。

誰かの完全下位互換だとしても、それでも生きていることに価値があると感じさせるような発言、行動をみんな求めているのではないかと僕は思います。

しかしそれは「生きているだけで偉い」とか「あなたにはあなただけのいいところがいっぱいある」とかいう誰でも言えるような曖昧な安い言葉ではいけないのです。

だってたとえ生きているだけで偉かったとしても、行き場のない劣等感はどうすればいいのか分からないし、もっと優秀な人間は生きている上に人々に幸せをばら撒いていてもっと偉いんだから。

要するに万人に共通して当てはまるような言葉はなんの役にも立たず、むしろそれぐらいしか褒めるところが無かったととられてさらに苦しんでしまう可能性すらあります。

従って真に必要なものとは、規範的な発言にも聞こえますが「どんな些細なことでもいいからその人、その時間にしかないことを評価する」ことなのです。

「今日の服センスいいね」とか「一緒にいて楽しかった」とか、あるいは言葉にせずとも笑顔で表現するとかでもいいでしょう。

とにかく土俵を小さく小さくして、戦う相手を減らして減らして、自分にとって、あるいは数人の相手のみにとって良かったかどうかを重視していれば、どうしようもない劣等感に悩まされるというよりかは、現実的に改善のしようがある問題に悩まされることになるのでずいぶん気も楽になります。

これこそが現代の若者が、いや若者に限った話ではなく多くの人が、忘れてしまっていることなんじゃないかと僕は思います。

多くの人に影響を及ぼせる可能性を持っている、様々な人の意見や知識を吸収する術を持っている、あらゆるコンテンツを見る手段を持っている、それは確かに大きなことです。

でも、だからといって私たちは身の回りにいる少人数の友達とか家族との関係を捨てないといけないなんてわけではないのです。

例え発信手段を持っていたとしても、多くの人を魅了することができる人はそう多くはありません。というかほぼいないでしょう。

けれども周りの数人を笑顔にする、自分を笑顔にするだけなら、もちろん簡単ではないですが、ほとんどの人ができることだと思います。

そのためには漠然とした大きなフィールドの中で超一流の人と自分を比較するなんてことはやめて、身の回りの人と自分を比べてみて、いいところはいいと表現しあい、好きじゃないところは好きじゃないと表現しあう方がよっぽど意義のある、幸せにつながる行為ではありませんか?

「生きているだけで偉い」ことはないですが、「生きているといいところの1つや2つ生まれてこないはずがない」のです。

その1つや2つのいいところを褒めそやして、思う存分調子に乗ればいいじゃないですか。

往々にして大きな成功というのは馬鹿の思い込みから始まるものなのです。

自信満々に「論理的に考えて自分はダメだ」なんて言わないで、みんな。

そんなこと言えるほど頭も良くないと思うよ。

雑記

Posted by doffy