【suggest】親ガチャハズレからの道
「生まれ育った環境が子の人生を決める」
近年話題となった親ガチャという言葉は、この事実を痛烈に表しています。
子供は親を選ぶことはできないのに、その親に人生がかかっている、この姿がまるでガチャのようというのです。
何を言っているんだ、育つのは子供自身、親はそれをサポートするだけなのだから、多少の差はあれど本人の努力にかかっているだろう、という意見もあるでしょう。
しかし本当にそうでしょうか?
責任能力を持たず、自分一人では何もできない子供にとって、手本となる、そして頼りにできる存在は周りの大人、とりわけ親しかいないのです。
いくら子供が努力したところで、手本が悪ければ、頼れる人間がいなければ成長は難しいに決まっています。
周りに人がいなければ言葉は喋れるようになりません。
家にピアノがなければピアノは弾けるようになりません。
野球チームに入らずに野球のプロになることもできません。
にも関わらず、子供は自分で人を集めることも楽器を買うことも月謝を払うこともできないのです。
これらの機会を提供し、応援するのは親の役目であり、この親の良し悪しでこの成功が決まるというのは、あながち誇張でもないのではないでしょうか。
そしてこの残酷な事実は、SNSの普及によってより明確になってきてしまいました。
SNSにおいて目立つのは成功者の発言であり、その他有象無象の発言はもみ消されてしまいます。
その結果成功している人と自分との差をはっきりと認識するようになり、その原因を親に求めるのです。
親ガチャを外した先に
じゃあ、私は親が悪かったから人生終わりだと思う人もいるでしょう。
でも諦めるのはまだ早い。
というか諦めたところで親は変わりませんし、あいにくこの世界はデスルーラもできないようなのでね。
なのでなんとか今いる環境でどうハッピーに生きていく方法を探していこうというのが本記事のコンセプトとなっています。
幸運なことにこの世界にはスタートダッシュに失敗しても、無課金でも逆転のチャンスは一応あると思うんですね。
初期装備のいい課金勢が強いのは当たり前、そうでないからといって後から装備をつけてやり込めば追いつけるはず!という考えでいきましょう。
ハズレ方もいろいろある
いい親悪い親というのもいろいろ種類があって、それによって子供の成長の仕方も変わってきます。
例えば家庭内暴力の多い家で育った人は、他人と距離を詰めるのが怖くなってなかなかコミュニケーションが上手くいかなかったり、内向的になってしまうでしょう。
これは周りがいくら大丈夫だと言ったところで、人生で初めて出会った人が大丈夫じゃなかったんだからそうそう治るものじゃありません。
もしこういう家庭環境の子がいたら、とにかく強く詰め寄らず、根気強く付き合ってあげましょう。
他にも親が仕事で家を空けることが多く、あまりふれ合いの時間がなかった場合でも、やはり対人関係は苦手になりがちです。
こういう場合子供も割としっかりしており、自立しているように見えるため問題視されづらいですが、自己表現が苦手でなんでも一人で抱え込んでしまい、突然壊れたりするので注意ですね。
その他家が裕福ではなくなかなか遊びや習い事ができなかったり、親が厳格で肩身が狭かったり、価値観のずれや進路の強制など子供の成長を歪める材料は様々あり、そのそれぞれで対応も変わってきます。
「1人で抱え込まず周りの人を頼れ」とか「悩んでいる時間が無駄だから気にするな」とか言ったところで、それができるなら困ってないわという話ですよね。
そもそも子供は想像しているより多くのことを考えています。ただそれを行動に移すことが不可能なだけなんです。
(やらないからできないんだなんていう人は無視しましょう。何もわかってません)
考え方を変えてみる
このように厳しい家庭環境にいた人でもいろいろ種類はあり、そのどれもが対応は極めて難しく、親ガチャと言われるのも納得です。
そのような人たちに汎用性のある対策を提示することは難しいですし、たとえそんなものがあっても行動に移すことができない人も多いでしょう。
そこで、僕が考えたのが、ハズレからアタリを目指すのではなく、ハズレをアタリに変えてやろうというコペルニクス的転回!
たしかにいい親に恵まれた方がいいキャリアを歩めるのかもしれません。しかしそれが果たして幸せな人生といえるのでしょうか?
アタリを引いた人はアタリの環境しか知らないわけですから、その素晴らしさを知ることができません。なんなら自分の環境は恵まれていないとまで思っているかもしれませんね。
親ガチャにはずれたと嘆く人の多さからも、この仮定は少なからず正しいと言えるでしょう。
その点厳しい世界で生きてきた人たちは、痛みを知っています。苦しんでいる人たちの気持ちを量ることができますし、幸福を得られた時の喜びもより大きくなるに違いありません。
あなたはマラソンに自動車で参加して、トップでゴールしたからといって嬉しいでしょうか?
どれだけ効率が悪くても、ハンデを背負っていても、走って走って辿り着いた先のゴールの方がより素晴らしいものとなるのです。
成功の確約された世界で順当な人生を歩んでいくのも悪くないですが、報われない人の気持ちを知り、努力を評価できるような人としてもがきながら頑張るというのもまた一つの理想像ではないかと僕は思います。
恵まれない環境に生まれたこと、それはある意味ではチャンスなんです。
もちろん大変なこともあるでしょう。
当たり前の人間になるためにどれだけの苦労が必要なのか、ありきたりな励ましの言葉でどれほど傷つくのか、努力はしていても状況は良くならずどれほど落ち込んだのか。
これで何がチャンスだ、人生三重苦どころじゃ済んでねぇよという話です。
でもそれでは環境は変わらない、苦しみを共有できるのは同じように苦しんだ人だけです。いくら説明したところで本質的には分かってはもらえやしません。
しかし、だからこそチャンスなんです。
人生を一つの山みたいなものと考えると、山頂はみんな同じですがそのスタート地点は人によって違います。
ある人は1合目から登らされ、ある人は7,8合目までロープウェーで登ってからスタートできるんですね。
そして親ガチャでハズレを引くというのは、1,2合目からのスタートをするようなものです。
これをいいとみるか悪いとみるはその人次第でしょう。
ただ僕はこれはいいことだと思っています。というか思うことにしました。
山の麓も麓、1合目からスタートしているからこそ、登ってきた距離の長さ、登っていく人々の素晴らしさを感じられるんですから。
8合目までロープウェーで登った人が頂上まで行ったところで大した感動はないでしょう。
その苦労も達成感も味わうことはできません。
登れて当たり前という山を登るだけ、それで人生勝ち組だとしても、一度きりの人生の楽しみ方としてはいまいちじゃないですか?
ここまで読んでいるあなたは、きっと1合目とか2合目からスタートしていることでしょう。
そんなあなたは、ぜひその登ってきた高さを誇ってください。
たとえまだ5合目だとしても、8→10はたったの2合なのに対し1→5は4合分も進んでいます。歩んできた道のりはあなたの方がながいんです。
そして同じように麓から登る人を応援してあげましょう。
苦しんでいるのは一人ではありません。
そして、その苦しみ、努力をわかってあげられるのは、同じように苦しみ、努力した人だけなのだから。
追記
(※ただの落書きです)
親ガチャという言葉には、少々親への否定のような意味が含まれており、それが嫌悪される原因にもなるのですが、これはあまりいい解釈とは言えません。
親も親である前に1人の人間であり、それぞれの事情を抱えているので、理想の人間となることはやはり難しく、少々のミスをおかしてしまうことも不可抗力なのです。
コミュニケーションが少なかったり、思い通りに行かず強い言葉を使ったりしてしまうとも、親としてどうかはともかく1人の人間としては何ら不思議のない行為でしょう。
自分の事情はわかっていてそれでも子供を育てるという選択をしたのだから、このような弁明は言い訳にすぎないという考えもわかります。
しかし、このような言い方が適切かどうかはわかりませんが、親が「普通の子供」を育てるキャパシティを持っていたとしても、子供が「普通の子供」であるという確証はどこにもありません。
それに伴って起きる弊害も、起きないと予想できないものでしょう。
勉強がすごく苦手で本当にできない子供だっています。嫌いだからやらないとか、他の子より進みが遅いとかそんなものではなく、本当に全くできないのです。
コミュニケーションに問題があったり、自己表現が苦手だったりする子もいます。
ここまで極端でないにしても、想定通りにいかないことは少なからずあり、それを事前に予測できたとかなんとかいうのはあまりにも浅はかな考えで、親に対して求めることとしては重すぎるものです。
さらに親本人の事情にも変化が起こらないとは限らず、このようなことが何かしら起こってしまった結果、うまく子育てができなくなった可能性もあるでしょう。
子供が親のことを恨むのは仕方がありません。自分では選べないのに幼少期の人生を全て預けることになるのですから。
でも周囲の人がその親のことを悪くいうのは違います。子が苦しんでいるから親が努力していないという訳の分からない論理が通ることはあってはなりません。
親もまた親ガチャの被害者であることだってあるのです。
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